けっきょく美容室に行っていない。希望の時間にはすでに予約がいっぱいだった。思ったより時間って少ない。
直毛サラサラに憧れたときもあったのだが(正確に言えば、今でも「あらまほし」的な思い入れはある)、クセっ毛もワックスでどうにかすれば「ふんわりヘア」になるので便利。ただこれって、鋏を入れた人によるので紙一重。
このように日々を過ごしながら読んだのは…大川周明の『回教概論』。
事実誤認の部分も少なからずあるものの(その指摘は解説にだけ書いてある。ちょっと不親切だと思う)、集約されていて分かりやすい。文語調に慣れてないととっつきにくいかも。
学術書、研究書、評論といった類の……こうした文章の場合は、文語体(文語調、と言ったほうがいいのか)で書かれた明治〜昭和にかけてのものを現代風に翻訳してもいいと思う。
「こうやって書いたこと自体が著者の思想」とも言えるけど。
やっぱりわたし、森鴎外や二葉亭四迷あたりは古文だと思っている。世界が違いすぎるので、翻訳文学のように扱うべきではないかと。
で。それを翻訳したところで、その需要というのは、どれだけあるのか? 少ない気もする。森鴎外を楽しみたい人は、そのまま楽しみたいのだろうし。
というか……パッと考えたけどかなり難しいな。文法はもちろん、解釈について相当議論が繰り返されてきてるところを、どうまとめるのか? 前途多難。無闇に「桃尻語」みたいにするのは違う気がするし。
まぁ、古典読んだからって偉いわけでもなんでもない。ただ、古文の翻訳がありだったら、それもOKだと思う。当時はゆるふわ気分で読まれてたものだってあるわけだし。
(ちなみに、『回教概論』はゆるふわ気分ではない)
